紫電改保存館

太平洋戦争末期に活躍した名機・紫電改。ゼロ戦なら、日本全国あちこちに展示されているが、紫電改を保存している施設は、日本でこれ一箇所だけだそうだ。たったの400機しか作られなかったので、仕方のないことではあるが。

紫電改は2000馬力級の戦闘機(ゼロ戦は1000馬力級)。航続距離は約2000キロで、ゼロ戦21型(3500キロ)の約半分しか飛べない局地戦闘機だったが、大戦末期の日本軍は制空権を失い、攻撃してくる敵機を迎撃するのが目的だったので、実際はこれで充分だった。

御荘町の西海道路のPAから歩いて10分のところにある紫電改保存館をめざした。この徒歩10分の道、バイク通行禁止になっているが、車止めはいいかげんで、路面は舗装、しかも、日陰がなくて、滅茶苦茶暑い。ゲート破りして入っちゃえばよかったかな?と汗を拭き拭き歩いていたら、私をTDMとディグリーが追い抜いていった。どこにも要領のいい人はいるもんだ、と思っていたら、紫電改保存館の人に見つかって怒られていた。ゲート破らなくてよかった〜。

館内。

一見して、ゼロ戦より、大きい印象を受けた。

全幅、全長はゼロ戦と大差無いが、胴体がかなり太い。エンジンがでかいから、機体もそれに合わせたのだろう。

プロペラも大出力のエンジンに合わせて4枚ペラ。

この紫電改の由来であるが、昭和20年7月24日、大村基地を飛び立って、敵の大編隊と交戦中、6機の紫電改が後方不明になり、うち一機が昭和54年に海から引き揚げられ、塗装し直されて展示されているのだそうだ。パイロットの方は亡くなられたらしい・・・合掌。

ちなみに、この紫電改水没を目撃した人によると、「パイロットが乗ったまま、沈んでいった」という話だが、コックピット内に遺品や遺骨は無かったらしい。海没直後に脱出し、そのまま亡くなられたらしい。機体番号も剥げ落ち、遺品もないため、6人のうちの誰が乗っていたのかわからないそうだ。

この6人、一人を除いて、20〜20代半ばの方で、その大半が予科連出身である。

飛行機に詳しい友人・M君のコメント

「7月24日の出撃の話は光人社から出版されていました。紫電改を擁する大村の飛行隊は、特攻で死なすには惜しいと当時軍部で言われてた、優秀なパイロットが集まっていました。この日も500機くらいの米軍機を相手に戦ったそうです。20機くらい出撃して、6機未帰還となりました。」

とのこと。20機で、500機相手というのは、すさまじい状態だ。。。

さすがに、機体はジュラルミンが錆びてボロボロだったが、空戦フラップ発振器等のパーツ類がはずされて、ケースの中に丁寧に並べて展示されていた。

これは20ミリ機銃弾。

私の横にいた、年配の男性が、「変だ。おかしい。」とブツブツ言っているので、きいてみたら、この方、戦時中、軍用機の整備をしていたらしい。20ミリ機銃の弾を見て、「これは2号銃じゃなくて、1号銃だ。(1号銃は、火薬が少なくて薬莢が小さいらしい。)これじゃ、B29や24は落とせない筈だが・・・??」とのことだった。真相は薮の中。。。

ここで、また、M君のコメント

「機銃の話は謎ですね。でも、この飛行隊なら米海軍の艦載機相手が多かったはずですし、フィリピンやラバウルでは零戦の13ミリ機銃で、B17やB25(B24もいたはず)を墜としていた人たちが揃ってましたからねぇ。」

このHPを見た、SevenStarsさんから、あくまでも、個人的な主観の入ったコメントですが・・ということでご意見をいただきました。

「愛媛の紫電改保存館の20mm機銃の件ですが、何故か手元に「海軍航空教範」(光人社)という本があります(^_^;)。大戦中の搭乗員教育用の資料を復刻したものです
が、この中の「飛行学生兵術講義案」(昭和十九年七月、霞ケ浦航空隊作成)に、
旧海軍が使っていた兵器の要目が記載されてます。

20mm機銃にはたしかに九九式一号機銃と二号機銃の二種類が記載されています。一
号機銃は零戦に搭載され、大戦初期に大きな威力を発揮しましたが、初速(弾丸の
発射スピード)が遅くて射程距離が短いのが難点でした(弾丸が遅いから遠い目標
だと途中で落ちてしまう)。これを改良したのが二号機銃です。銃身を長くしたの
で初速が25%もアップし(ただし、一秒間に発射できる弾丸の数は減っています)、
命中率も上がりました(落ちる分を予測して見越し射撃しなくてもいいから)。当
初の紫電や紫電改に載せられていたのがこれです。

ところが「飛行学生兵術講義案」によると、二号機銃の備考に「逐次一号ニカワル」
という注記があります。折角新型を作ったのに、なぜ旧式に変えなくてはならなか
ったのか? その理由は当時の戦況にありました。

米軍の本土空襲は日に日に激しくなり、軍需工場も大きな被害を受けていました。
機銃を作るには銃身の内側にライフルリングという螺旋型の溝を掘る専門の機械が
必要なんですが、その機械もやられます。しかしこの機械は輸入品で、壊れたから
といってすぐ代わりを探して来るわけにはいきません。当時の日本の工業技術は、
自力で高度な工作機械を作るところまでは行っていなかったのです。

それでも機銃は作らなくてはなりません。数の減った機械でどうやって沢山機銃を
作ればいいのか? その結論が二号機銃の生産をやめ、一号機銃に戻す事だったの
です。銃身が短ければライフルリングを削る時間が短くて済み、一日に作れる機銃
の数は増えるからです。威力が落ちるのは承知の上ですが、背に腹は替えられませ
ん。かくて、大戦末期には一号機銃を付けた戦闘機が増えて行きました。

多分、引き上げられた機体もその一機だったのだろうと思われます。男性の方は、二号機銃の方が威力が大きいと聞かされていたので、弾丸や薬莢が大きいと思っていたのでしょう。けれど「〜講義案」によれば、一号機銃も二号機銃も弾丸の炸薬量や全体重量は同じです。口径が同じなのに弾丸が違っては補給が混乱しますから
普通そういう事はしません(余談ながら、陸軍と海軍だと口径が同じでも弾丸は別
なんですね。何故日本が負けたのか良く分かります^_^;)。威力に差が出たのは銃身
長の違いです。

なお、13mm機銃でもB17やB24を落とせたというのはMさんのおっしゃる通りです。
有名な坂井三郎さんがB17を落とした時、とどめをさしたのは13mmどころか7.7mm機銃でした。一号機銃ならB29を落とす威力は十分にあります。ただ、腕が良ければという条件が付きます。射程距離が短いから二号機銃より目標に近づく必要があるんですが、ご存知の通りB29の防御砲火は凄まじいものです。それをかいくぐって接近するには並や大抵の腕では無理です。

そこで、射程距離が長い二号機銃は上昇力が高くて頑丈な為B29迎撃に向いている雷
電などに回され、射程距離は短いが単位時間に撃てる弾丸の数が多い一号機銃が、運
動性が良くて敵の護衛戦闘機や艦載機(すばしこいから近づかないと当たらないし、
数を撃たないと逃げられる)の相手を任された、紫電や紫電改に装備されたのではな
いかと想像します。」

とのことです。
コメントありがとうございました!

他、この保存館では天山12型のプロペラも展示されていた。

★この紫電改引き揚げの話と、6人のパイロットの戦歴について、詳しく知りたい方は、「紫電改の六機」(碇 義朗、光人社NF文庫、2000年)を見て下さい。(M君、本の紹介ありがとう!)

●紫電改保存館
愛媛県御荘町 馬瀬山山頂公園内、西海道路のパーキングから徒歩10分、0895-72-3212(←公園事務所の番号らしい。保存館の電話は不明)
9時半〜18時(季節によって変動あり)、無休、無料